彫られない眼が語る
作家、三輪途道(ミワミチヨ)さんについて、以前このブログでご紹介したことがあります。
三輪途道さんのこと その1「天才女学生、東大寺を動かす。」
三輪途道さんのこと その2「盧舎那仏に選ばれし者」
三輪途道さんのこと その3「肖像彫刻を極める」
三輪途道さんのこと その4「愛に包まれる人」
三輪途道さんのこと その5「その後」
三輪途道さんのこと その6 「「不屈」って言葉では語れない」
その三輪さんから、
ギャラリーTAGA2 で開催される個展のご案内が届きました。


Michiyo Miwa Exhibition / 三輪途道「沈黙の犬」
3 April – 2 May, 2025
今まで自分の言葉で三輪さんのことをご紹介してきた私ですが
今回は
この個展開催に際して三輪さんの書かれた文章を
そのままご紹介するのが
良いように思い、
TAGAさんからご提供いただいた作品の写真とともに
ご紹介します。
写真: 木暮伸也様
提供: アーツ前橋様
とキャプションがありますことをご紹介致しておきます。
「沈黙の犬まで」

具象彫刻において、眼は命です。

「眼は口ほどにものを言う」とはよく言ったもので、
眼を作るために全身を作っていると言っても過言ではないほどです。
少々乱暴な言い方をすると、眼の造形を見れば作家の力量がわかります。
眼を見れば他の部位を見なくても、ある程度その作品の力がわかってしまう。
それが「眼」なのです。

見えなくなっても彫刻を作り続けています。
ですが、眼は作れなくなりました。
長く木彫での肖像彫刻を自分の創作活動の核にしてきましたが、
木彫は刃物を研がなければならず、
刃を入れる際に木の柾目と逆目を見極める必要があるため、
見えない私には手に負えないものになりました。

今は粘土で作品を作っています。
見えなくても長年の経験で触りながらなんとかそれなりに作っています。
ですが眼はどうやっても納得したものは作れません。
結局私は眼を作らないという選択をしました。

私にとって生きるということは彫刻を作るということそのものなのです。
どんなものが出来ようが私は作品を作り続けることしか望んでおりません。
ものは考えようで見えなくなったという事は、
神様が自分に与えてくださったチャンスだと思えば、
見えないという事実を個性としてとらえることもできます。

見えない分、勘を働かせ、手を動かし、知恵を使っているうちに、
違う人生が開かれてきたように感じます。
私が作る彫刻には眼がありません。
眼で語ることができないので、「沈黙」という言葉を採用しました。
彼らは私です。犬になって動き回る私です。

見えていた当時の私は完全主義者で、
一人で生きることを好み、
人を頼ることはありませんでした。
作品も人を寄せ付けない空気が漂っていたように思います。

一人ではなく人と生きることを選択したことで
作品も変わってきたようです。
人を寄せ付けなかった作品が人を受け入れるものに変わってきたのかもしれません。
考え方を変えると人生が変わる、作品も変わる、
そう思うと見えない人生もそう悪くはありません。

三輪途道
以上が三輪さんからのメッセージです。
今回は私は言葉を添えません。それがいいように思います。
遠く離れた下仁田の三輪さんに、私なりに届けることができる愛は
これなのです。
「鹿サポーターズクラブ」

奈良との縁(えにし)深き三輪さん。
(来年には奈良県立美術館館長の籔内先生や東大寺関連の何かがあると
教えていただきましたが、まだ未発表なので、内緒。)
私の拙い思いなのですが・・
神の使いと言われる奈良の鹿さんをサポートすることが、
きっと三輪さんに良きことを運んでくれるような気がして・・・・。
鹿さん、お願いね・・・・

【医療以外のつぶやきの最新記事】